現実の認識を
心拍がなくなったと電話が着信したのが昨日23時28分、恐らく10分経たずに病棟に到着したはず。
ナースステーションで別室に案内され、母に対面。
まぁ聞いた通りであり、既に手の施せる状態ではない。
というか、姉と私の合意で無為な延命行為はしないということを取り決めていたので。
5分ほどは茫然と手を握っていたと思うが、後に延ばすと色々厄介なので死亡確認を依頼。
結局この時間が死亡診断書に記載されるわけで、2010年3月26日23時47分ということになった。
姉にも連絡が行っているのは聞いていたが、一応現状確認のため電話。
医師も看護師も一時退室して、しばらくは母と私だけに。
とにかく色々な思いが渦巻くが、形にはならない。
姉達が到着するまで1時間ほどかかったと思うが、そんなに経ったとも思えず。
既に点滴の管やら酸素マスクは外してもらっており、普通に対面だ。
姉も相当辛かったようだが、姪2人が見ていられない状態だった。
ずっとやり取りしていた仲の人が天に召されるというのは初めてのことのはずで、恐らくはかなりの衝撃だと。
ただ、これは多分すごくいい経験になるはずだと思う。
私は父方も母方も含め祖父母と余り話したこともなく(遠方なので)、亡くなったと言われても実感がなかった。
時間的にどうかとも思ったが、一応叔父(母のすぐ下の弟)と伯父(父のすぐ上の兄)には連絡。
しばらくはそのまま居たわけだが、この後のことも考えなくてはいけない。
色々な支度を看護師さんにお願いして、我々はカンファレンスルームへ。
ここで泣き続けていても仕方ないので、少しは軽い話題なども話したり。
結局1時間ほど経ったろうか、ようやく呼び戻された。
#週末の深夜で手薄なはずなので時間がかかるのは仕方ないのだ
薄化粧をされた母はきれいなもので、これまでの苦しみが嘘のようであった。
そんなこんなをしているうちに、この時間だと言うのに叔父も駆け付ける。
もう霊安室の方にも連絡が行っており、程無く迎えが来る。
荷物もまとめて全員で移動、父が亡くなったのが2002年の10月だからほぼ7年半ぶりだ。
こんなところの勝手を知りたくもないが、ある程度わかっているのが悲しいところ。
安置されて線香をあげて、私が色々事を進めねばならないので話を。
どうやら前回と同じ葬儀社がやってくれるようで、ちと思うところはあるが伝手もないので任せることに。
友引が絡んだり、父母とも宮崎の人間なので親戚の出てくる都合など考えて日程をまず決める。
結局通夜を29日、告別式を30日ということとした。
細かい打ち合わせは翌日ということとして、時間も時間なので引き上げることに。
本当なら誰かしら残ってやりたいところだが、倒れては元も子もないので詫びながら退出。
結局家に帰り着いたのは4時半前というところだろうか、それどころではないのだがゴミはあるので5時にはゴミ出し。
さすがにしんどいので、軽く食事をしてから仮眠を。
記憶が定かではないが、2時間も経たずに起きていたのではないか。
病院でお願いしていたので、叔父からメールで母の写真が来た。
いや、最近は全然撮っていなかったのである。
昨年半ば強引に行かれた故郷での写真が良いかもと、いくつか選んでくれたのだ。
私はとりあえずシャワーで目を覚まし、出来る範囲で家を片付け始める。
12時前には姉も到着、色々とやりながら昼食を。
なにはなくとも、食べないと動けないのが悲しい現実である。
本当はもっと眠らないと動けないのも事実だが、これは短期間なら気合いでなんとかなる。
人数もいるしこの状況でまどろっこしいこともしていられないので、タクシーで病院まで。
正直この後しばらくの記憶がなく、思い出したら追記したいと思う。
夕方になり葬儀社との打ち合わせもあり、しばらく地下にて話す。
なんだかんだで19時過ぎになったか、今日も病院に母を残すことになってしまった。
まだ家がとても受け入れられる状況とはいえないので、ここは勘弁してもらう。
地上に出た瞬間にメールと不在着信通知、伯父と叔父からだった。
まぁ当たり前の話で、明後日には葬儀をしようというのだから遠方からだと手配が色々あるのだ。
その場で答えられることは全部答えて、そのまま帰宅。
姉たちには明日加勢してもらうこととして、私はとにかく出来る範囲で部屋を片付ける。
ゴミ出しのタイミングもあり、まぁ片付けるというよりは如何に隠すかといったところ。
ふと思い出して、いつものローソンへひとっ走り。
こういう事態に陥るとは思っていなかったので(当たり前)、Amazonの荷物が来ているのだ。
後回しにしておけという話だが、そうすると120%忘れそうなので今やる。
本日のブツは、ときめきメモリアル4 OFFICIAL ILLUSTRATIONS(AA)である。
当然見るのは後回し、しまうべき場所にしまっておく。
淡々と作業を続けて、あと連絡できるところは連絡をしておく。
一番難儀だったのは、遺影の背景選定だったかもしれない。
遺影自体は、結局父の七回忌の時のが一番「らしい」ということで満場一致だった。
細かいことを決めて、いい加減限界を迎えたと思ったところで休むことに。
とにかくここ数日はへばるわけにはいかないので、上手くセルフマネジメントだ。
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